大切な人に本を贈るように、誰かに伝えたいコンテンツがある。
私にとってのそれはWake Up,Girls!(WUG)であり、ドリフェス!だ。
どちらのユニットも解散、休止を迎える。
(WUGはユニット解散、プロジェクトは続行。ドリフェス!は活動休止)
プリパラやアイカツ!などの親元が同じコンテンツと比較すると商業的規模が小さい。
それが原因なのかもしれない。
けれども、そこでコンテンツの全てが終わるのだろうか。
コンテンツの死という点から考える
コンテンツの死とは、記憶からなくなることなのだろうか。
誰もがそのコンテンツについて語れなくなること、忘却されること。
それがコンテンツの死に近付くのではないだろうか。
大衆心理や商業的には売れたか売れなかったか、ではあるのだろうけども。
売れるコンテンツを追いかけているだけの人も今の世の中には大勢いて、その人達は商業的に売れなかったから死亡とみなす。
そこに「イマ」という時間軸が無い限り手に取ることがない。
古典となっていくであろうコンテンツに今出会えた私達は幸せだろう。
古典はあまりにも多く、売れたコンテンツも売れないコンテンツも古典になるのでその中で売れなかったコンテンツを見つけ出す事は難しい。
しかし、私やあなたにとってはどうだろうか。あなたの中で生き続けているメッセージや想いがあるなら、それはコンテンツが生き続けている証とも言えるのではないか。
コンテンツは終わる。しかし夢も希望もメッセージも続いていく
コンテンツは商業作品である以上、その枠組みを外れることはないだろう。
つまりいつかはコンテンツとしての終焉を迎えるということだ。
公式展開が終わる。燃料の投下が終わる。
その肩書を名乗っていた人たちはその肩書を外す日が来る。別の肩書に変わるかもしれない。
しかし、コンテンツの死は別の形でやってくる。
記憶の中から消えていくことがコンテンツの死なら、コンテンツの終焉がコンテンツの死と同じタイミングで訪れるとは限らない。
私やあなたはそのコンテンツに何を見たんだろう。
きっかけは誰かに布教されたことだったのか、それとも自分で手に取ったのだろうか。
そこからコンテンツとあなたの対話が始まるのだが、あなただけの物語は作られていっただろうか。
あなただけの感情や想いは生まれただろうか。あなたは彼らや彼女たちに救われただろうか。
あなたの中の何かを動かしたなら、それを誰かに見せたいと思えたのなら、そのコンテンツはまだ死んでいない。
誰かに届けたいと思う気持ちや、そこに感謝や強い想いがあるならいつか誰かに届ける機会は訪れるはず。
しかしコンテンツを死なせたくないから誰かに見せたり、○○はいいぞ、とブログに書いたりしているのだろうか。
それは多くの場合違うと思っている。私の答えは簡単で、コンテンツに出会って生まれた熱量がこうして誰かに伝えさせている。
ただ好きであることを叫びたいのだ。そこには今しかない。
出会えた事への感謝もその中には含まれる。
自分が巻き込まれたように、また誰かを巻き込みたい。
その想いがある限り、少なくとも私の中ではそのコンテンツは死んでない。
そう思いたい。そう思う自分を肯定したい。
私はもしあなたが同じように思うなら私はそれを肯定したい。
欠落するコンテンツ。コンテンツの限界
今の時代、コンテンツは形のないものが増えてきた。
配信終了や、もう二度と見れないもの。
アーカイブされていないもの。
そこで見れなくなったら上に書いたように、あとから古典として出会うことすらもかなわなくなる。
欠落していくコンテンツの中で、本質的な部分が欠落していったところにあるならなおさらだ。
今出会えなかった人に本質を伝えることができなくなっていく。
そして、大衆向けでない物語、メッセージ性の強すぎる物語だからこそ私やあなたに響いて、こんなにも好きになれたのではないか。
私やあなただけが受け取った物語があるはずだ。
それぞれが送ってきた人生や持っている価値観だからこそ響く部分があったはずだ。
その感情をそのまま誰かに渡すことはできない。
あなただから響いた部分は他の誰かに響くとは限らない。
ここがコンテンツの性質によって生まれてしまった商業的限界であり、布教の限界だと思う。
本質は今、そしてこれまでコンテンツに向き合ってきたあなたの中にだけある。
5年後10年後あたりにそのコンテンツに出会う人は今後も今向き合ってる人達の感情にたどり着くことはできない。
イマの中にしかない”奇跡レベルって言えそうな確率”の出会い
わかりやすいメッセージが一貫して描かれ、最初から最後まで完結しているコンテンツ。
そんな自分だけの物語が入り込む要素のない物語なら誰にでも渡すことができる。
リツイートも簡単にできる。好きです、の一言で済ませられる。これほど重くない薦め方ができるだろうか。
今流行っているモノだけを追う人はあら捜しが好きなのだ。完璧で素晴らしいものだけが好きなのだ。
自分だけの物語が入り込む要素。それを言い換えるならスキがあるということだ。
空白性であり、粗い部分だ。それを否定する人たちにはどうやっても減点対象としか映らない。
その人達に絶対に届けられないコンテンツを好きになってしまった私達は、そのコンテンツがスターダムの座に届くことはどうやってもないという事実を目の当たりにする。
彼らは2018年という最後の平成時代では圧倒的多数だからだ。
彼らに届かない物語は商業的に売れるコンテンツになれない。
そんな時代の中で、私達は多くある売れないコンテンツの中から私達だけの物語に出会えた。
おそらく多くの人にとって最強のコンテンツではないだろう。
しかし私やあなたにとっては最強で、サイコーを超えた出会いがそこにあったはずだ。
この出会いから生まれた数々の想いは私達にしか見つけられないホンモノであり宝物である。
それらに出会えず人生を終えるくらいなら誰になんと言われようと、私やあなたの目は間違ってなかったと言い切れる。
それだけの価値がある出会いだったと思っている。
先輩ワグナーに見せられてWUGを知った。その出会いに今も感謝している。
あなたはどんな出会いをしましたか。
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