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未来に怯えるあなたへ。人生を開拓するということ

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眠れない夜。祖母が「開拓。人生、開拓だよ。」とむかし私にことあるごとに言っていたのを思い出す。


そうなったらどうしよう、と。今から続く未来なんてろくなものじゃない。


そんなふうに未来をずっと嘆いているわたしに向けた言葉だったはずであると、薄い記憶がそういっている。


認知症が進み、祖母のわたしとの記憶はどこかにいってしまった。さらに仲悪い人たちを通さねば会えないので、こないだ会ったので、おそらくは。それがきっと。

道のない人生

自分の前に道がない人生を歩んで来たと、思っている。


だが多くの人に助けられてきた。私が作った道なんてどこにもない。


たくさんの後悔がある。これができなかった。あの人にそれをしてあげたかった。もっと多くの悲しみが横たわっている。


だけど振り返ればこれで良かったのだ、と思える選択はしてきた。

というよりも、この道を選ばなかった、そうじゃなかったわたしを想像したら、いまのわたしよりかよっぽど気に食わないのだ。


ふつうの人がみたらみすぼらしくてどうしようもなくて無価値でろくでもない人生。


これしかない、そう思い込むしかないのかもしれない。


だけどわたしには十分すぎるほどの幸せを多くの人にもらう事ができた人生だ。

誰かの歩んだ道、だったかもしれない


私の前にあるのは、これまで会った生きてる誰かや生きてない誰か、そういうものが作った獣道だけなのだった。


わたしは偶然それを見つけた。それが道だとみとめないのは贅沢なことかもしれない。きっと私には、間違いなく贅沢だろうけど。


でも、その道はわたしにとって隣の人生の道ほどは広くないのだ。1本の糸が、パンくずが、草むらのなかに途切れ途切れに置かれているだけだ。


その中を歩いていくことは、開拓なんて言えたものじゃないと、わたしは胸の奥がぎゅっとなる。

人生で何を成し遂げましたか?


あなたはこれまでの人生、何をしましたか。何を成し遂げましたか。140字で書きなさい。


“社会性フィルター”や”常識”の擬人化みたいな面接官が、いつも心の中に棲んでいる。顔がないのに、ひどくつまらなさそうな冷たい目線でときどきわたしの人生を査定してシュレッダーに投げ込むのが仕事だ。


おそろしくありがたいことに、それが下す判決はいつだって「何の価値もない」「今すぐ損切りをしろ」「誰にとってもお前の存在は害である」という言葉の言い換えなのを、わたしはもう知っている。


人生において成し遂げたことの一つは、そいつに言い返すすべを身に着けたことだ。


うるさいな、お前らみたいなのに害だと思われるのなら、お前らを喜ばせるためになんか死んでやらない。わたしはわたしであること以外それほど誇れるものはない。


そうやって一発反論をかましてやったところで、「じゃあ、開拓はできたのかい」と、それの残骸が囁く。

じゃあ開拓はできたのかい


誰もが目を背けるような、ボコボコに殴られた野良犬のような、だけどそこそこの人が入れ替わり立ち代わり助けてくれるような、そんな人生。


現代において何かと交換可能な、レートの高いものではないかもしれない。底辺と揶揄され、あらゆる市場において価値がつかないのはわかる。


だけどそれは、高騰もしない。下がりもしない。売られもしない。何も買えない。


わたしの人生はそんなような形態をしているのに、もう気付いている。それこそがたぶんわたしの、宝物として手に入れたもの。


どんなときも、わたしはわたしを本当の意味であきらめなかった。あきらめきれなかった。それだけは確かだと思う。

道を、振り返る


だから今、降り返って見えるこの道は間違ってなかったし、そこにつながる道であるかぎり、目の前のどこにつながってるかもわからないこの道の、往く先に間違いはないと信じている。


わたしの行く先に道はないが、いつだって人がいる。


根拠のないそれを、信じられるということ。わたしにとっての開拓で得たものであり、わたしがこの先に連れて行くもの。


生きてりゃいい、なんて無責任に聞こえるかもしれないけど、わたしは無責任にしかなれないけど、きっと振り返ったときにしか、わかんないから。

こんな人間でもいい人生だったんじゃないかって思う日が来るときはあった。だから、もしあなたが同じように悩んでるのなら、ってことだけは、伝えたい。

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