ドラゴンクエスト ユアストーリー 勇者のためのネタバレ感想

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もう一度、あなたに剣を握る力を。

 

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はじめに ~あの映画を拒絶するあなたへ~

「あなたはいまも勇者ですか?」
『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』のテーマ。この問いに対する答えが観客の評価を分ける。
本記事は、あのラストシーンに挑んだ勇者たちに向けたものです。今回の映画には終盤、あまりにも耐え難い場面があった。私も当然、その一人でした。
結論として、この映画は困難に立ち向かう作品なのかもしれない。絶望は私たちに与えられた困難であり、その試練に立ち向かうことが、私たちのもうひとつの冒険なのではないか。そう考えることができます。
※本記事の目的上、以降の内容は断定的な表現を用います。ご了承ください

結論:勇者であるということ

「在りし日の勇者たちよ、きみはいまも勇者なのか」

この問いかけが本作品のすべてだ。私たちが愛したドラクエのすべてを理不尽に消し飛ばされて、それでも主人公の少年とともにウイルスに立ち向かうことができるか。映画館の客席で、スクリーン上の世界と仲間たちをあのウイルスに奪われて、それでも屈することなく最後まで勇者でいることができたか。それがこの映画の評価を大きく二分する。

本作品はドラクエを思い出にするものではなく、ドラクエとともに生きるためのものだ。「大人になれ」というウイルスの言葉に対して、私たちは「ゲームの思い出を穢された」と膝を折って嘆くのか、それとも「あの冒険のすべては私の人生だ」と胸を張って叫ぶのか。本作品はそのように作られている。ただ思い出に浸りたかっただけのあの日の勇者たちに、きみはいまも勇者ですかと訴えかけている。ドラクエが単なる過ぎたお遊びではなく、あのゲームで冒険に挑んだ日々もまた人生の一部だったのではないかと問いかけているのだ。

どうか本記事によって、“あなた”がもう一度、剣を握ることができますように。

……え? どうしても勇気が出ない? このCMでも見てあの頃を思い出して!

【神CM】ドラクエⅪのCMがセンスありすぎるとネットで話題! 【Twitterで話題の動画】

 

なぜこのような展開にしたのか

制作者には、本作品の制作にあたって伝えたいことがあったはずだ。堀井雄二氏と山崎貴総監督が語っているように、ドラクエの映画化はそれ自体が非常に難しい。その上で、本作品は当時のドラクエをただ懐かしむものではなく、そんな観客そのものをターゲットとして映画化している。

「ドラゴンクエスト」生みの親・堀井雄二、映画化で山崎貴総監督にお願いした2つのこと - シネマトゥデイ
世界中で愛され続けるRPG「ドラゴンクエスト」(以下、DQ)を、山崎貴総監督のもと、フル3DCGアニメで初映画化した『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』が公開された。

この映画は「ドラクエを好きな人の物語」なのだ。「ドラクエの物語」ではない。しかし「ドラクエを好きな人を楽しませる物語」とも少し違う。ドラクエというゲームをそのまま焼き直した物語ではなく、このゲームの中に人生を見出したことがある誰かの物語なのだ。そして制作陣は、それが“あなた”であることを願っている。この物語は“あなたの物語”であると。

原作の中には登場しない人物、あの少年こそが“あなた”であるともいえる。彼はかつてドラクエを愛した者、そしていまでもドラクエを愛し続けている者の象徴であろう。彼はウイルスの理不尽な仕打ちに深く絶望するほどにドラクエを愛していたし、その絶望から立ち上がるほどにドラクエを愛して続けているのだ。

いくつかの指摘に答えてみよう

「軽率に試したアイディアだったのでは?」

制作者はおよそ可能な限りの手を尽くしている。終盤までのドラクエVは映画化の尺に合わせて再編集されており、導入の懐古的な2D映像やリュカの違和感ある言動もまた、終盤の展開のための伏線だったのであろう。

特に主人公の少年とVR設定に関しては秀逸といえる。あの一見してノリの軽そうな少年は、その一方で“いつも”ビアンカを選んでしまうドラクエVガチ勢であり、ずっとドラクエを愛し続けてきたファンの姿なのだ。だからこそ、彼はウイルスがもたらした絶望に立ち向かうことができたのではないか。

「作品への愛に欠ける展開だったのでは?」

本作品はドラクエへの愛にあふれている。終盤までの本作品では、ドラクエの世界と仲間たちがあれほどまでに愛おしく描かれていた。そして、終盤の展開が意味するものこそ、ドラクエが単なるゲームのひとつではなく、誰かの人生の一部であるという限りないリスペクトの証であろう。

ただし、その愛は、あの展開を乗り越えてこそ感じられるものといえる。あの展開に対する絶望は、本作品が入念に制作されていたことの裏打ちであり、その先に抱く希望こそを、本作品は描こうとしているのではないか。

「こういう作風はもう流行らないのでは?」

その指摘は正しいのかもしれない。本作品は誰もが賞賛する名作でもなければ、それなりの評価を得る凡作ですらないのかもしれない。しかし、本記事の解釈が正しければ、決して駄作などというものではない。

そう、万人に受け容れられる作風ではなく、特定の誰かの心に響いてくれることを願った作品なのだ。ドラクエを知らない観客には、こういうお話も良いと思ってもらえることも、気持ちよく観られなかったと思われることもあるだろう。しかし、それでも制作者はドラクエのファンに向けて、どうしても伝えたいことがあったのではないだろうか。

ウイルスに負けないでほしい

打ちのめされて当然かもしれない。愛していた世界と仲間たちを、あのような理不尽な形で唐突に奪われたのだから。でも、だからこそ、そこから立ち上がってほしい。

本作品は、ドラクエの映画化に期待したという観客には受け容れ難いものかもしれない。しかし、そんな誰かにこそ、いま伝えたいなにかがあるのではないか。あの現実に打ちのめされる元勇者にこそ、ふたたび勇者として生きてほしいのではないだろうか。

最後に、とあるドラクエVガチ勢の表現を引用しよう( http://yourstory.blog-rpg.com/ )。
※ユーザー名とパスワードの欄に映画で出てきた息子の名前を半角小文字のローマ字で!

そして映画は次の言葉で幕を閉じます。

「僕が、勇者だったんだ。」

そうです。私が勇者だったんです。
天空の剣は抜けなくとも、本当に強大で恐ろしい敵を倒した勇者なんです。
そしてその力をくれたのは間違いなくドラクエⅤのキャラ達で、
彼らと力を合わせたから世界に平和が訪れたんです。泣かせるね。
私はこの部分に関してだけは原作を超えたとすら評価したい。
だってこの映画のミルドラースは、主人公(私達)にしか倒せなかったのだから。

私はリュカ(本物の方)が勇者じゃないことにこそ、このゲームに価値を感じていた
人間なので、君が勇者だって言われても内心「へー」って感じなんですけど。
でも私が主人公で勇者だった。この映画でだけは。

ウイルスに屈してしまった人たちに伝えたい。負けないで欲しい。
監督の作品愛がどうとかそんなことはどうでもいいんです。
試されているのはあなたの作品愛。あのウイルスに見せてやれ。
絶望に屈するな。あの少年と一緒に立ち上がれ。その先にしかない景色があるから。

おわりに ~あなたはいまも勇者ですか?~

私たちには愛と強さの両方が求められている。ドラクエとあの世界や仲間たちへの愛だけでなく、その愛を貫く強さをも求められている。

昔は勇者でした、という誰かにこそ向けられた作品。しかし、昔は勇者だったこともある、思い出に浸りにきました、という誰かにとっては興醒めであろう。そんな人物に、この作品は「大人になれ、そんな思い出に浸るのはやめろ、それはもう過ぎた紛いモノの時間なんだ」と突きつけてくる。でも、そんな誰かにこそ、もう一度だけ立ち上がってほしい。「あの時間は私の人生の一部だ、あの世界と仲間たちはいまも生きているんだ、これは誰でもない私の物語なんだ」と。そしてあのウイルスの悪意に対して、あの少年とともに立ち向かってほしい。

ひとつ重要なことがある。本作品では、主人公であるあなたは勇者だったのだ。あなたも私も、現実世界では伝説の勇者ではない。天空人の血筋も天空の剣もなく、封印すべき魔界の門も魔王も存在しない。それでも私たちは、勇者の心を抱いてさえいれば、これからも、どんな困難にも立ち向かっていけるのかもしれない。

それ以上のことは語らないでおこう。もし、あなたがいまも勇者なのだとしたら。子供の頃と同じように、大人になっても大人になりきらずに、勇者として在り続けられるのなら。それが本作品に込められた本当のメッセージなのかもしれない。しかし、それをどう受け取るのかは、制作者と同じく、“あなた”におまかせしよう。なぜなら、これは単なるドラクエの物語ではなく、制作者による物語でもなく、もちろん私の物語でもなく、誰でもない“あなた”を描いた物語だから。あの世界で、あの仲間たちと、勇者として生きて魔王を倒した、そんな“あなたの物語”なのだから。

補足:映画作品として考えるべきこと

本作品は、ひとつの映画として評論するなら、厳しい評価を受ける作品になるのかもしれない。思い出に浸ったままで、ふたたび剣を握ることのない観客が多ければ、本作品は否定的に受け止められることのほうが多いのかもしれない。

それでも制作陣は、観客の誰もがいまも勇者であることを信じようとしたのではないか。そしてその上で、本作品のような設定を試みたのだとしたら、その意気こそを賞賛したい。それが結果として失敗だったとしても、それでも、自分の中にふたたび勇者を取り戻した観客たちはきっとたくさんいるだろうから。

なお、本作品には、あの設定を前提として入念に考察すべき点も多く残されている。作中でプサンやマーサが口にした「今回」という言葉。スラりんに宿っていたアンチウイルスプログラムの来歴。そしてあの現実のVRの世界ではいったいなにが起こっていたのか。現代の“勇者”たちには、そういった点についても、ぜひ議論を交わしてもらいたいと願う。

謝辞・責任表示

謝辞:本記事の主要な内容は、以下のファンとの議論を通じて得られたものです。ひびき澪さま、えむきゅーさま、凍夜さま、末筆にて深く御礼申し上げます。

責任表記:本記事の責任は、すべて著者のうさいち(@cograbbit)にあります。本記事に関するご質問やご意見があれば、遠慮なくお問い合わせください。

 

著者:うさいち
2019年8月7日 第一稿 公開
2019年8月10日 修正稿 公開

 

 

中古ゲームの駿河屋

この記事へのコメント

  1. 匿名 より:

    プレイヤー=主人公=勇者の構図は議論としてTRPGの時代からあり、
    ゲーム機の登場によってプレイヤー体験=RPGとするパラダイム
    シフトが起こり、DQVは主人公=勇者のアンチテーゼを目指した
    作品という位置付けも知らないのです。

    作品の素性を知っていたら、絶対選ばないテーマです。
    30年以上も熟成されてきた議論に対して、あえて挑んだにしても、
    テーマがチープ過ぎるのです。主人公の反論もクソ弱いのです。
    故に、「勇者として肯定したい。」という思いが薄っぺらいのです。
    これをそういう作品であると主張しても、説得力がないのです。

    記事中のDQガチファンの人は、あえて選んできたと解釈してますが、
    そんな繊細な細工ができるなら、親子の物語から娘を外すわけが無いんですよ。

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